うつ病をわずらったら「恋」をしよう。うつ病患者が彼女に「ありがとう」を言うための記事。

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まいど、黒井(@961373)です。

ぼくは「うつ病」です。さらに「引きこもり」だし「ニート」だし「中卒」だしで、日本の底辺に属しています。いえ。もはや底辺にすら「属している」といえないくらい、社会と関わりをもたずに生きているんです。

でも、

ぼくにはありがたいことに、彼女がいます。

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彼女の「4時間」とぼくの「5分」と、それから「彼女が帰ったあと」ついて。

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個人が特定できるようなことは書きませんが、彼女はぼくの住む神奈川県に、電車とバスを乗り継いでおよそ「4時間」もの時間をかけて遊びに来てくれます。

帰りの時間を合わせたら「8時間」にもおよび、その移動には時間だけでなくお金もかかっています。彼女もそう多くのお金を稼いでいるワケではありませんが、お金と時間をかけてぼくの家まで遊びに来てくれるんです。

「あんたも『駅まで』くらいは迎えに行くんでしょ?」

という疑問の声が聞こえてきそうですが、ぼくは彼女を迎えに「徒歩5分の近所のバス停」に行くだけ。帰りも「近所のバス停まで」です。

「うつ病」をわずらっていると「何事もマイナスにとらえてしまう」ことがあります。これはもう自分ではどうすることもできないんですよ。

だから、

本当は「4時間もかけてぼくのところへ遊びに来てくれてありがとう」というべきところで「どうしてわざわざ4時間もかけて来るのかね」とか「ちゃんとおもてなしができるか不安だなぁ」と悪いことを考えてしまうんです。

しかもそれを自分の意志でくつがえすことができない。

人はいかなるときも「気分」や「感情」に影響されながら生きているので、彼女と接する「態度」も、どっちつかずで「ただ彼女を傷つけまいとしているだけ」という感じになってしまいます。ぼくは彼女に対して怯えているんです。

彼女からしてみれば「4時間も電車に揺られてきてコレかよ」という印象を抱いてもおかしくはありません。

それなのに彼女は嫌そうな顔をひとつも見せない。

ぼくがそのことに「ありがとう」を感じられるのは、悲しいかな、いつも彼女が帰ったあとなんですよね。部屋にひとりぼっちになると、とげとげしい寂しさに襲われ、彼女の存在のありがたみに気付かされます。

今回、彼女は「8月12日から14日」までの「2泊3日」でぼくの家に遊びに来てくれました。おうちが遠いから、会うときはいつも「ひさしぶり」という状態で、ぼくは毎回すごく「緊張」しています。最初はロクにしゃべれないほどです。彼女なのにね。

彼女が帰ってしまう日(すなわち本日)になって、やっと「彼女がいなくなってしまう」という心細さが芽生え始め、ぼくはようやく少しずつ素直になっていく。

でも、

彼女は帰ってしまうので、あとには例の「とげとげしい寂しさ」が残ります。

うつ病をわずらったら「恋」をしよう。

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「うつ病患者」には「ぎゅっと抱きしめてくれる人」が必要です。ぼくはそう考えています。それはちょっと恥ずかしいけど両親でもいいし、兄弟でもいい。もちろん彼氏や彼女でもね。

ぼくの勝手な考えですが、きっと「ハグをすることが習慣となっている国の人」と「ハグをすることを何だか恥ずかしがっている国の人」とでは、前者のほうが「うつ病などの精神疾患に罹患しにくい」のではないでしょうか。

そういう統計ってないんですかねぇ。

日本において「うつ病患者」に対する国民の目は冷ややかです。甘えられずにひとりで抱え込んでしまいがちな「うつ思考」のある人に対して、平気で「うつは甘えだ」と罵る人がたくさんいます。

しまいには「うつは根性で治る」だとか「うつは気合で治る」だとか、根拠のまったくない精神論をドヤ顔で語る人もいるんです。

自分は根性があるからうつ病になんてならない(キリッ

そこまでいくと、さすがにちょっと「バカじゃないの?」と思いますが。

反対に「うつ病」を大げさに受け取りすぎて「どう接してあげたらいいか分からない」という人も多そうです。

ぼくは、

「うつ病患者には特に何もしてあげなくていい」と考えています。何かを「してあげる」と考えるのではなく、どうか「それでも一緒にいよう」という考えでいてほしい。それが実際にうつ病をわずらっているぼくの願いです。

彼女はぼくにとって「黒井がうつ病であっても一緒にいよう」と思ってくれている唯一の人なのかもしれません。

それは「うつ病」だけではありません。たとえば「ニート」であるだとか「引きこもり」であるだとか「童貞」であるだとかね。

そんな要素があってもあなたの人間性は変わらない。

そう言ってくれる人がひとりでもソバにいると、きっと「うつ」にあっても穏やかな心を見失わずにいられるんじゃないかしらと思うんです。

広く浅く、何らかの意図のある人間関係を見なおして、たとえ狭くとも「深く」そして「無条件の愛」を注いでくれる人を探しましょうよ。

人間、名前と顔を瞬時に思い出すことのできる友人なんてそう多くはありません。年賀状が届いて一瞬「誰だっけ?」と思う人も、正直、いるでしょう?

人間の集団規模とコミュニケーションの関係について山極氏はこう定義する。10~15人は言葉を交わさずに意思疎通できる「共鳴集団」だ。サッカーやラグビーのチームが相当する。ゴリラの平均的な群れも10~15頭だ。30~50人は顔と性格が分かり一致して動ける集団。学校のクラスの人数だ。

100~150人は顔と名前が分かり、日ごろ会話をあまりしていなくても信頼のおける仲間だ。アフリカの狩猟採集民の集団は150人前後。山極氏は「年賀状を書く時に相手の顔が思い浮かぶのは150人ぐらい」と話す。集団規模が大きくなるにつれ、会話や文字によるコミュニケーションが必要になり、発達した。

引用:「会話なくても信頼」150人まで ゴリラに学び 人を知る(7) – 日本経済新聞

「友だち100人できるかな」という考えを捨て、新たに「1人でもいいから深く分かり合える友人を持とう」という考えを、どうか頭のなかに入れてほしいんです。

直接会って話す機会が減り、メッセージでのやり取りが増え続けている現代社会において「知り合いの数」やツイッターなどSNSでの「フォロアーの数」は力にもなります。

しかしその一方で「あまりに広くあまりに浅いソーシャルな人間関係」は、あなたの人生の幸福度を大きく下げてしまう要因にもなりかねないんです。

ぼくには友だちがいません。

ぼくと比べたら日本中のほぼすべての人は「知り合いや友人が多い」ことになります。そのはずなのに「浮かない顔」をしている人がたくさんいるのはどうしてでしょう。

いま一度、考えてみてくだい。

あとがき

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8月13日は久しぶりにブログをお休みしました。しばらく「毎日更新」を続けていたので何だか気持ちの悪い感じがありましたが、毎日つづけることがニガテなぼくでも、今日まで毎日更新ができていたんだなと思うと、何だか嬉しかったです。結局休んじゃったから連続更新の記録はストップしちゃったんですけどね!

彼女はきっとこの記事も読むでしょうから、現実では恥ずかしくて言えないことを最後に書いて終わります。こんなどうしようもないぼくを愛してくれてありがとう。ぼくにはまだ「好き」だとか「愛している」だとかはよく分からないけれども、あなたに感謝の気持ちを持っていることは確かです。あとで思い出して寂しくなるくらい幸せな時間でした。どこにも連れて行ってあげられなくてごめんね。

以上!

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