ほどよく小さなスペースで生きよう:過剰な現代をムリなく生きるために

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まいど、黒井みなみ(@961373)です。
コンビニって便利だよね。でもぼくが住んでいる神奈川県や東京都では、ぐるりとあたりを見回せばコンビニが2、3件あったりする。

ふと思ったんだけど、この「見える範囲に数件あるコンビニ」が、すべて24時間営業である意味は何だろう。

そう考えたとき、現代は「過剰」で溢れているな、と思った。

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2位じゃダメなんですか?

たとえばコンビニなら、最初にセブンイレブンが「24時間営業にします!」といって、それを聞いたローソンやファミリーマートが「セブンが24時間ならウチもやるしかない!」といって・・・

その繰り返しで多くのコンビニが24時間営業になったのなら、どこかに「ムリ」が生じるよなあと思う。

競争することは「高め合う」という意味で素晴らしいけど、その反面「強制」による疲弊がともなう。「あの企業に勝たなければならない!」というのも、ぼくには何だかしっくりこない。

「2位じゃダメなんですか」

といった国会議員もいたけど、ある意味においてはぼくも「2位じゃダメなのかなあ」と思うところがある。

これからの社会はグローバル戦略が大切なのだ、というのは分かるんだけど、日本は人口の関係上(そして人口の割合上)「第一線」で活躍するのはむずかしいんじゃないか。

「ムリに1位を目指す」ことにぼくはキラキラとしたものを感じられない。

ムリをして先進国であることをアピールし続けたり、ムリをして世の中が便利になったりしても、ムリをしている企業でムリをして働いているたくさんのひとは、ムリをして疲れているので休日も家でごろごろしていたりする。

世界や社会を成り立たせるためにひとが存在しているのだとしたら、ちょっと虚しい。

まずそこに「人」がいて、それぞれの「個」が集まって社会化していくという流れは自然だけど、大きくなりすぎた社会をメンテナンスしたり、より良く、より発展させたりするために人生の大部分を捧げるのは、すごいことだけど滑稽でもある。

働くことは本当に「生産的」なのだろうか

「生活するためにはお金が必要でそのためには働かなきゃいけない」という意見は分かる。ぼくはブログでの収入だけではひとりで生きていけないので、未だに親のスネをかじっているから、お金についてはよく考える。

でも、働いて働いて、疲れきっちゃって、毎日のように「栄養ドリンク」や「エナジードリンク」を買って飲んだり、ストレス解消と銘打って「飲み会」を開いたり「カラオケ」に行ったり、ご飯をつくる気力が残っていないので「外食」ばかりしているのでは、かえって「お金をムダに使っている」ようにも感じる。

たくさん働いて、いい加減に疲れて、労働に見合ったお金をもらって、それで何か「楽しいこと」や「嬉しいこと」や「幸せなこと」を買うことができたらいい。でもぼくの場合においては「お金を使うことで幸せになる」ことなどあり得ない。結局のところ「楽しい」とか「嬉しい」とか「幸せだ」ということは「感情」なのであり、それはお金で買うものではないからだ。

澄み切った青い空の下で、冷たい空気を深く吸い込むと、気持ちが良い。幸せな気持ちになれたりする。その気持ちを手に入れるのに、やっぱりお金は要らないのだ。

お金が中心になって社会ができているのだから、お金がないと困る。でもたくさんお金を手に入れるために働き詰めになるのは本末転倒な感じがする。そうして体を壊したり体調を崩したりして、またお金が出て行く。ストレスを受けるあまり食べ過ぎたり、お酒を飲み過ぎたりして、またお金が出て行く。働いていると生産したもの以上に消費をしているような気がする。

「お金はいくらあっても足りないね」

ぼくにはよく分からない。

過剰な世界から離れて自分に必要な最低限のスペースを見つける

古本屋ってたくさんあるじゃない。ブックオフとか。でも昔は古本屋なんてめったになかったって、母が言っていた。中古本や中古レコードがスムーズに世の中に出回る仕組みが整っていなかったということなのかもしれないけど、それにしたって現代は「あまりもの」や「要らないもの」で溢れている。

ぼくたちの生きる現代は「過剰」だ。

「ほしいもの」はたくさんあるけど「本当にほしいの?」と自分に聞いてみると「それはこれで代用できるから要らないかも」とか「新しいヤツがほしいけど今のもまだ動いてるから要らない」ということが多い。

反射や感情に任せた「直感」というのも大事だけど、これを便りにし過ぎると「ムダの多い生活」をする羽目になる。ムダの多い生活をするためには「ムダ遣い」ができるくらいに稼ぎが必要で、そうなると先の「お金はいくらあっても足りないね」という状態になってしまう。

お金を貯めることで「将来の安心」を確保する、というのもあるけど、ムリをして貯金をするより、ムリをせずにゆるく生きるほうが病気になったりするリスクは減ると思う。

「お金がただの紙切れに!」というのはちょっと現実味がない感じがするけど、いざというとき、それはケガや病気だけでなく、地震とか火事とか、ゴジラや宇宙人の襲来が起こったとき、お金は本当に自分の身を守ってくれるものなのだろうか。

「お金」というものがなかった遠い昔には、お金の代わりに「人間」を信じていろいろな取り引きをしていたに違いない。

でもいつの間にか「人間」を信じるひとは少なくなっていって、代わりに「お金」を信じるひとが多くなっていったのだろう。もしもそうであるなら、人類の辿ってきた歴史は、本当に正しい道だったのかしらと思う。

人間には集団や組織での「スペース」と、個人の「スペース」がある。ここ数十年くらい「個人のスペース」というのはないがしろにされているのではないか。だから人々は「個人」ではなく共通の価値を持つ「お金」を信用するようになっていったのだと思う。

ぼくはほんの1ヶ月だけど起業家のひとの部下としてこき使われていたことがある。そのとき彼は「暮らすには最低でも50万はいるだろ?」と言っていた。ぼくはそれだけあれば半年くらいなんとか暮らせるんじゃないかと思った。

そのときから「自分に必要な最低限のスペースを確かめよう」と考えるようになった。

現代は「過剰」だ。また「その過剰を手に入れられなければ幸せではない」という風潮すらある。

かつて「人生のテンプレート」とされていた、自動車を所有し、郊外に一戸建てを持ち、結婚して、子どもは男の子と女の子のふたり。たまの休みにはどこかへお出かけして、年に一度はちょっと遠くへ旅行に行く。

というような人生を送れるひとは、現代ではだいぶ限られた人間だけだ。現代は昔のように「頑張ればなんとかなる時代」ではない。

自分の「過剰」にいち早く気づき、本当に自分に必要なことやもの、好きなことやものを探して、超ハッピーというわけじゃなくても、心地良い広さ、あるいは狭さのなかで生きる。それが過剰な現代をムリなく生きる方法だと、ぼくは考えている。

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