「自分にちょうどいい速度」の中に「幸せ」がある。

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メンタルヘルス

この頃ぼくは「雑記」のような記事ばかりかいている。それはきっと本を読んでゆっくりと暮らしているせいだ。

ゆっくり本を読んでいると、持て余した脳が勝手に思考を始める。ぼくの場合「仕事」と「幸せ」についての思考だ。

この2つは「人生において大切なこと」だけど、それでいて「答えのないもの」でもある。

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「自分にちょうどいい速度」はどれくらいだろう?

ぼくなんかは「ニート」のようなものだし、ブログを書こうが書くまいが誰に文句を言われるでもない。でも朝はさすがに「常識的な時間に起きる」ようにしているし、夜だって「早寝」を心がけている。

食事をする時間もなんとなくではあるけど「決まって」いるし、夕方の5時半ごろには自宅で飼っている老犬の散歩に出かける。10分ていどだけどね。

こんなふうに「ニート」のぼくでさえ、なんとなく1日の流れというものがあって、その時間のすべてを「自由に」使えるワケではない。

学生や社会人となれば尚のことだろう。

赤川次郎の「三毛猫ホームズ」を読んでいて、ふと「猫は自由だよな」と思った。

「猫界」にも煩わしいことはあるのかもしれないけど、傍目に見ている分には「猫は自由」に見える。少なくとも犬や猫やハトなどの動物たちは「自分の速度で」生きていることだろう。

「予定」に振り回され「時間」に追われているのは人間だけだ。

ぼくは「体力がない」し、そもそも「予定に振り回され時間に追われる生活」に魅力を感じないので、なるべくなら「自分の速度で生きたい」と考えている。

では、

自分にちょうどいい速度というのはどんなものだろう。

と考えてしまう。

「ニート」のぼくですらすべての時間を自由に使えるワケじゃないのだ、世の中のほぼすべてのひとは「時間を自由に使えるワケじゃない」のだろう。

そうすると「自分にちょうどいい速度」が分からなくなってくる。

自分にとってちょうどいい速度が分からなくなることは「動物」としてすごく悲しいことだと思う。

「自分」を意識することは難しいけど、そう心がけることで「自分にちょうどいい速度」が分かってくる。

「自分にちょうどいい速度」を取り戻すと、仕事をしていても、面倒な飲み会に出席したときも、家でダラダラとしているときも、ふと思い出して「自分にちょうどいい速度」を感じ取れるようになるはずだ。

自分にちょうどいい速度で生きていると、小さな幸せが見えてくる。

「自分」という存在を意識することで、少しずつ「自分にちょうどいい速度」が分かってくる。思い出されると言ってもいいだろう。

「自分にちょうどいい速度」を感じているとき、ぼくは「小さなこと」から「幸せ」をすくい取ることができる。そんな気がするのだ。

焦ってせかせかしていたり、嫌にのろのろしているとき、心は「自分とテンポの合っていない速度にどうにか適応しなければ!」と必死にチューニングしようとする。

そのとき「心」が「適応すること」に気を取られているからなのだろう、小さな「幸せ」を見逃してしまいがちだ。

でも現代社会では「自分のペースで」などという考えを持ちづらい。

仕事には「納期」や「締切」があるのが常だし「何時から会議」などの予定もある。だから「自分のペース」で仕事をしているとロクなことがない!

そう考えているひとも多そうだ。

でも「幸せ」は「自分にちょうどいい速度」を生きているときにしか目につかない。その「速度」から外れてしまうと、世の中が急につまらない、どうしようもないものだと感じられる。

社会の大きさには適切なサイズがあると思う。

社会は大きくなり、便利になったけど、この「便利さ」と、その裏で多くのひとが「自分にちょうどいい速度」を見失っていることを比べると、ぼくはどうしてもこの「拡大」と「成長」に首を傾げたくなる。

ここまで便利である必要はあるのか?

社会というのはひとの集まりだ。つまり「人ありき」のはずだ。ひとが集まってきて、そこに社会が生まれる。

ということは、

社会の大きさにはその社会を構成する人数に見合った「適切なサイズ」があるはずだ。

このサイズを下回らなければ、社会が崩壊したり、餓死者がたくさん出たりすることはない、と思う。世界を相手にしようとするから「社会を大きくする」方向へ行くのかしら。

そして、

社会を構成する人数に見合った、適切なサイズの社会を構築するのに、これほどまでの労力は必要なのだろうか。

疑問は尽きない。

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