朝と夜のぼくはまるで別人だ。
朝はまいにち絶望とともに起きる。時間が経つにつれて少しずつ絶望感は和らいでいき、夜も更けてくると、気分は小さな挑戦者となる。
しかし、寝床につき、翌朝を迎えるころには、挑戦者の気分はどこへやら、また一日がはじまるのだという圧倒的な絶望感を前に、為す術もなくひれ伏すしかないのだ。
朝。

親の敵。
夜のぼくは仏様である、とは言わないが、朝のぼくはとにかくひどい。
母に言わせれば、朝のぼくの顔は「親の敵を前にした人間の顔」であるとのことだ。言い得て妙というか、鏡を見ると、なるほどその通りだ。
「朝の顔」というのは、何も「寝起きの顔」を指しているわけじゃない。
お昼になっても、ときには夕方になっても、母の言う「親の敵を前にした人間の顔」のままなのである。
根拠のない確信。
朝と夜とで異なるのは「顔」だけではない。
「こころ」と「からだ」も違う。
朝、起きたばかりのぼくは、とにかくありとあらゆる物事に深く絶望している。まるでこの世の真理を悟ってしまったかのようだ。まあそんなはずはないのだけれど。
過去の自分にも、現在の自分にも、未来の自分にも絶望していて、今から何をどうしようと自分の不幸な将来を変えることはできないのだと、なぜか、確信している。
確信するに至った理由はない。
しかし朝の時間はこの「確信」に反抗することができないのだ。
動かない。
反抗することができないのは「こころ」だけじゃない。
朝の時間の「からだ」のだるさにも反抗をすることができない。体なんていうのは自分のものだし、自分の意志で動くのだから、どんなに体がだるくたって、えいやっと気合いを入れて動くことができるはず……
しかし、朝の時間においては、そうすることができないのだ。
朝、どんなにお腹が空いていても、どんなに便意をもよおしていても、指一本と動かすことができない。
金縛りのように何らかの強い力で体を拘束されているような感じではなく、キーを回してもエンジンがかからず、きゅるきゅると力の抜ける音ばかり聴こえてくるような、もどかしい感じだ。
あまり大声では言えないが、一度だけ、起きていながら布団の上でおしっこをチビったことがある。
そのときも、体が言うことを利かず、四苦八苦しているうちに限界を迎えてしまった。ただし、そのときはほんの少しチビってしまった瞬間、一気に体が動くようになったので、大事にならずに済んだ。
夜。

夜、ぼくは朝とは別の人間になっている。
朝起きたときの絶望感はどこかへ消えてしまい、ときには「明日どこかへ出かけてみようかしら」などと思っていることさえある。
元気溌剌としているわけじゃないが、朝とはくらべものにならないくらいポジティブになっている。
そうは言っても、これは「ぼくのなかでは」ということであって、きっと、あなたの思うポジティブとは違うものだ。
せいぜい「ネガティブではない」という程度だろう。
しかし、ぼくにとっては唯一、ものごとを前向きに捉えることのできる時間だ。明日はこんなことをするぞ、と「やることリスト」をつくったりして、希望とまでは言わないが、小さな何かを持って眠りにつく。
その「何か」は、朝になるとすっかり溶けてなくなってしまうのだけど。
魔女の大鍋。
夜の時間帯はいつもポジティブなのかと言うと、そうではない。
深夜の時間帯になっても、この世のありとあらゆる「黒」を煮詰めたような暗澹としたものが、お腹のなかでぐるぐると渦を巻いていることがある。
その黒は、朝からひっそりと煮込まれていたのに違いない。
不安は明確な恐怖へと変わる。
このままひきこもりで、働く気もないまま、親が死んでしまったらどうしよう、というような不安は、腹の中で「当然そうなるもの」として固まっていく。
「そうならない可能性」は鍋の中の黒に溶けて見えなくなってしまうのだ。
ルールは「生きること」

自分から死んでしまおうとは思わない。
しかし、そうしたほうがいいのではないかと疑念を抱くことは多々ある。いつかその疑念が突発的に自分の首を締めようとするのではないかと恐れている自分もいる。
そうならないように、最低限これだけは守ろうというルールがある。
それは「生きること」だ。
こころが安定せず、ブログの更新がとどこおり、あなたから愛想を尽かされてしまうのではないか。
そう考えると、好きだったはずのブログを重荷に感じてしまうこともある。
こういうことは、あんまり言うべきじゃないかもしれないけど。
すべてを重苦しく感じてしまい、どうしようもないときは、迷わず生活のハードルを下げよう。中途半端なことはせず、一番下まで下げてしまおう。
それは「生きること」だ。
それさえクリアしていれば、目標達成だ。