まいど!黒井(@961373)です。
ぼく黒井はうつ病をわずらっています。でも病院には行ってません。定職に就いておらず、また学校にも通っていないので、事実上のニートです。
ハローワークには行かないのかと言われることもあります。でもぼくは中卒ですし、ロクな仕事にはありつけないでしょう。
さらにぼくは120キロのデブですから、立ち仕事や力仕事では、遅かれ早かれ音を上げるのがオチです。
それ以前の問題として、ぼくは学生の頃にイジメられており、そのせいか人と接することが壊滅的にニガテなんです。
近ごろようやっとTwitterでのやり取りに慣れてきたくらいで……。
普通とされる人間からほど遠く、また常識からも大きく外れています。つまり普通に学校に行って普通に働いて普通に結婚して普通に子どもを授かって、という人生のレールから反れたところにいるんです。
でも、
近ごろ思うんですけど普通の人生というものは果たして誰にとっても幸せで楽しいものなんでしょうか?
そもそも常識や普通とはなんでしょう?
普通の人生とは何ですか?
あなたの思う普通の人生とはどういうものでしょう。まさかこのご時世に男は働き女は家庭に入るなどとは言いませんよね?
未だに言っちゃう人もいますけどね。
かつて日本にあった男は働き女は家庭に入るものだという考え方は、現代においてはだいぶ下火になってきました。
それはどうしてでしょう?
時代が変わったからです。
時代が変わるとそれに合わせて常識や普通も変化します。よく考えれば当たり前のことなんですけど、多くの人は常識や普通という概念に振り回されていますね。
お侍さんが「普通」にいた時代もあるんですよ?
江戸時代にはチョンマゲを結って、腰にはカタナをぶら下げ、和装をした人がたくさんいました。
カタナやチョンマゲは置いておくとしても和装をすることは江戸時代の常識であったとは言えるでしょう。
いま、日本でいつも和服を着ている人はいますか?
ほとんどいないでしょうねぇ。
当然ですよ。
時代が変わったんですから。
めまぐるしく変わっていく社会情勢。
現代の社会は変化が速いですね。
インターネットの発展があり、パソコンがひとり一台になり、当たり前のようにスマホを持つようになり、世の中の速度は「現実ベース」から「ウェブベース」に変化したと言えます。
10年前にはスマホもタブレットも常識ではありませんでしたが、いまではどうでしょう。スマホ・タブレットという言葉はお年寄りの方にまで認知されています。
ばあちゃんの話【読み飛ばし推奨】
蛇足ですけど、ついこの間まで父方のばあちゃんが腰の手術をするということで入院していました。
そのとき彼女は病室にいてもやることがないと、ひさしぶりにケータイ電話をいじってみたのだそう。
ぼくが両親と一緒にばあちゃんのお見舞いに行くと、ばあちゃんは「動画を撮っていいかい?」といってケータイ電話をかまえるんですよ。
素直にスゴイなぁ、と思いましたね。
しかも……
それをきっかけに「スマホにしてみようかしら」ということまで言うんですから、時代は変わっていくものなんだなぁ、と感じました。
今日の常識は明日の非常識、今日の非常識は明日の常識。
現代にチョンマゲで和装のお侍さんがいないように、常識・普通は時代の流れとともに変化していきます。
つまり、おっちゃんの……
「俺が若い頃は」
なんていうのは一聴の価値もないのです。歴史の勉強にはなるかもしれませんけどね。でも優しく聴いてあげましょう。
経験則をもとにした演繹的な思考では、推し量ることのできない社会になりつつあります。グローバル化とはそういうことです。
人間力という言葉も本質的には同じ。
つまり規定の勉強がどれだけできるかということより、むしろそこからどれだけ寄り道をしたかのほうが評価される時代なんですよ。
常識や普通というのは絶対的なものではありません。それどころか常に相対的なものですよ。
今日の常識は明日の非常識、今日の非常識は明日の常識。普通も常識も、社会に合わせてゆらゆらと形を変えてしまいます。
そんなものに縛られてどうするの?
普通や常識とは人々が作り上げた通念でしかない。
ここで今いちど「常識とは何か・普通とは何か」について考えてみると、どうでしょうか。ほんの少しかもしれませんが、常識・普通という圧力が弱まったように感じませんか?
常識も普通もそんなものです。
どちらも人々が作り上げた通念でしかありませんよ。
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