人生が幸せかどうかは着たい服があるかどうかで決まるのかもしれない。

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うつろぐ

母に服を買ってもらった。

私が服を買ってもらうときは、だいだいいつも同じ流れだ。

まず最初に私が服を選ぶ。そうはいっても私には着たい服などない。誰にも会わないし、どこにも出かけないからだ。よって私の選ぶ服は決まって無地で地味な黒かグレーのシャツ。それもまったく同じものを複数枚。

母に見せると「同じ服ばかり買ってもしょうがない」と言い出す。私に選ばせておきながら、マウスをとると買い物かごから服を削除していく。代わりに目にしみるような鮮やかな服を次々と買い物かごに入れて、注文してしまうのだ。

ひきこもりニートの私はお金を払うことができないので、文句は言えない。

母の決定は絶対だ。

目がちかちかするようなうるさい服は見るのも嫌なので、よほどのことがない限り着ることはない。届いてもクローゼットの奥にしまい込み、ほこりまみれになるだけだ。

母は「今日はこれを着ようとか、着るもので気分も変わるでしょ」と私に自分の価値観を押し付けてくるが、私にはまったく理解できない。

着るもので気分が変わるというのは、実際に着るもので気分が変わっているのではなく、これを着て誰々に会うとか、これを着てどこどこへ行くといったコンテクストにより気分が変わるのではないかと思う。

だから誰にも会わず、どこにも出かけない私は、何を着ても気分は変わらず暗いままなんだろう。

着たい服があるということは、人生を楽しく幸せに過ごしているというひとつの指標なのかもしれない。

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