社会人はみんな「働くこと」ばかり考えていて「休憩すること」はないがしろにされている感がある。
でも「働くこと」より「休憩すること」のほうが大事なのではないか。ぼくはそう思う。
その仕事は「今日だけ」のものじゃない。
仕事というのは「今日だけ」やればいいものじゃない。だから「今日を精いっぱい頑張る」という考え方ではどこかで必ずムリが生じる。
その「ムリ」と格闘しながら社会生活を送るのはしんどいし、それでは「生きた心地」がしないのではないかと思う。
そもそも「最高の体調」で「最高の仕事」ができることはほとんどない。
その上で「仕事というのは今日だけのものではない」のだ。
であれば「いかに100点に近い仕事をするか」より「いかに平均点を上げられるか」のほうが重要だと思う。
つまり、
目指すべきは「今日だけ100点の仕事ができた」ということではなく「毎日60〜70点の仕事ができる状態」なのだ。
平均点を上げるには「休憩」すること。
仕事の平均点を上げるためには「どう休憩するか」が大事だ。会社勤めのひとには難しいかもしれないけど、しんどいと感じたら「仕事をするフリをして休む」というちょっとグレーなやり方でもいいから積極的に休憩するべきだ。
ぼくはポモドーロテクニックを用いて「25分」につき「5分」の休憩を取るよう心がけている。それ以外のところでも「しんどい」「ちょっと辛い」と感じたら手を止める。
「めんどくせえなあ」とか「だるいなあ」と感じながら「でもしょうがねえかあ」と作業をしているのでは、楽しくないから余計に辛いし、効率も悪い。
世の中の企業は「自分の会社の社員を信じていないのではないか」と思う。
本当の意味で社員を信じていれば「本人の自由なタイミングで休憩を取っていい」というルールがあってしかるべきだ。
自己の判断が尊重されるようになるといいな。
ひとりひとり「この仕事をするのにはこれくらいエネルギーが必要だ」という「コスト」が違う。それは「体力の多い少ない」だけでなく「得意か不得意か」であったり「体調が良いか悪いか」であったり、多くの要因によって決まる。
ひとりずつ、仕事のペースも異なれば、スタートダッシュが上手いひとがいたり、大器晩成というタイプのひとがいたり、じっくり計画を立ててそれ通りにこなすひとがいたりする。
どれが良くてどれが悪いということはないはずだ。
ひとりひとりの性格が違うように「仕事のスタイル」も違う。そういう特性の違いにより仕事に対して「向き不向き」が生まれる。
「我が社では個性を大切にしている」
という文句を目にすることがあるけど、本当にそうだろうか。
「仕事のスタイルの違い」や「仕事に対する向き不向き」がぴったりとそのひとに合った仕事を任されているというケースは少ない。
仮に「好き」でいて「自分に合った仕事」をさせてもらええいるひとだって、働けば疲れることに変わりはない。そこに「好きなことさせてやってるんだから休みなく働け」と言うのはおかしな話だ。
自分の体力や精神の疲労具合を他人の基準に委ねてはいけない。
あなたが働きすぎで倒れたり、ひどい痛みを生じて病院に通っていたりしても、会社はその責任をとってはくれない。だから「限界」は自分で決めるべきだ。
「これ以上つづけるのはヤバい」という予感があっても「仕方ないから頑張ろう」とエナジードリンクをあおるのは人間としてちょっとおかしい。
「しんどくても働かなくてはならない」という労働の環境は「王様と奴隷」の時代からほとんど変わっていないではないか。
コメント
[…] ・「どう働くか」より「どう休憩するか」を考えたほうがいい理由。 […]
[…] 「どう働くか」より「どう休憩するか」を考えたほうがいい理由。 […]