まいど、黒井です。
ぼくには山ほどの「相談したいこと」があります。
しかしながら誰にも相談することができないのです。
そもそも周りにぼくの相談を真剣に、あるいは素直に聞いてくれるひとなんていません。仮にそういうひとが近くにいたとしても、ぼくのほうが素直に相談をすることができないでしょう……
一方で、彼女のからの相談や愚痴には、きちんと対応している……と思います。少なくともぼくは誠心誠意応えているつもりです。
彼女のなかにある悩みや問題が、ぼくとおしゃべりすることで解決する……とは思わないけど、ほんの少しでも胸のつかえを取ってあげられたらいいなあ。そんなふうに思っています。
自分でいうのもナンだけど、けっこう、やさしいよね。
その「やさしさ」を、自分に向けてあげられたらいいなあと、思う。
自分を認められない。
ぼくには、自分の価値を、自分のなかでもっとも低いところに位置づけているフシがあります。
自分の努力や頑張りをまったく認められず、ひとりで外へ出て散歩をすることができたときでさえ、「散歩くらいできて当然なんだ」という気持ちでいっぱいなのです。
「散歩ができても、お店に入ったり、バスや電車に乗ることは怖くてできません……なんていうことじゃ、暮らしていけないんだから意味ないでしょ」
どうやら、ぼくは他でもない自分自身のことが、大嫌いなんでしょうね。
少しは認めてあげてもいいじゃないか。
そう思う。
そう思うし、こうして「少しは認めてあげてもいい」と書くことはできるんだけど、いざ自分に……となると、できない。
出てくるのは、やっぱり悪口ばかり。
悪口を言われすぎて、それが自分のなかの「当たり前」になってしまっている感じがする。
でも、自分の「しんどさ」を理解できるのは自分だけじゃんか。
やさしさを自分に向けられるようになりたい。
たとえば、きょうなら「お風呂」に入るのがしんどかったんです。1日中だるくて、夕ごはんを食べたらもう電池が切れちゃったみたいに動けなくなってしまって。
健康なひとからしたら「しんどくてお風呂に入れないって何?」という感じなんでしょうけれど、その「しんどくて」の全容を理解しているのは、この世にぼくひとりしかいません。
そのはずなのに、ぼくは、自分に対しては「お風呂に入ることなんて当たり前すぎて頑張ったも何もないでしょ」という言葉をかけてしまう。
一方で彼女が「仕事で疲れちゃってお風呂に入る気力がなかったけど、頑張ってお風呂に入ったよ」なんて言うと……
「おお、えらいね。よくがんばったね」
自分でも驚くほど自然に、そう言っているんだ。
「しんどさ」はひとそれぞれで、他人のそれを充分に理解することはとてもむずかしい。だからひとはひとを簡単に批判することができてしまいます。他人を軽んじているのです。
それはつまり、相対的には「自分を重要視している」とも言えます。
だからって他人を軽く見積もっちゃいけないけど、かといってぼくのように必要以上に自分をないがしろにするのも、どうだろう?
自分自身の「幸福感」のことを考えれば、多少なり自己中心的と思われようとも、他人より自分を愛し、自分を大事にするほうが、幸せそうですよね。
なーんて、ロジカルに「自分にやさしく」「自分を大事に」という方向へもっていこうとしても、やっぱり、自分で自分に声掛けをするときに出てくる言葉は、ほとんど悪口のような、否定の言葉ばかりなんですけどね。
それを、自分に向けてあげられたらいいんだけどなあ。
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