まいど、黒井です。
ぼくはアルバイトさえしたことのない就労経験ゼロの「ニート」です。
そんなぼくでも、ブログを書いて、そこに広告を貼っつけることで「お金」を稼げるようになりました。月5万円くらいだけどね。
これまでぼくは「お金がないからつまらないんだ」と考えていました。でも働くのは怖いし、だらしない体には体力もない。
じゃあ自分で稼げばいいじゃないか!
そんなバカみたいな思考でブログを始めたんですが、なんとか月5万円の収益を得られるまでになりました。
で、ぼくの人生は「お金」が少し手に入ったことで「楽しく」「豊かに」なったか。
答えは「ノー」です。
人生の「豊かさ」や「楽しさ」と「お金」は関係ないよ。
文字通りです。
「あと少しお金があれば趣味にお金を使えるのに・・・」
といった類の声はよくよく耳にします。耳タコです。
これまたバカな疑問なんですけど、
じゃあお金という概念がなかったころの人々は、みんなつまらなくて、精神的に貧しい人生を過ごしていたの?
と、思ったんですよ。
でも、そんなことないでしょ。
きっと現代と同じように「楽しそうなヤツ」は「楽しい」のだろうし、しょぼくれて「つまらなさそうなヤツ」は「つまらない」のだと思う。
それは「お金」が生まれる前から、ずっとそうだったに違いない。
だって、
楽しいかどうかって、その人の「気持ち」だからね。
「楽しい気持ちになれそうなもの」なら買えても「気持ち」そのものを買うことはできませんよ。
だから「お金がないから楽しくない」のではなく「楽しい気持ちがないから楽しくない」ということですよね。
それに「豊かだなあ」「幸せだなあ」と「感じる」ことは、身の回りから「選び取る」ことができます。
以前に記事にしましたが「幸せだなあ」とか「豊かだなあ」と「感じる」ことは、自分の身の回りや日常のなかから「見つけ出して」あげることができますよね。
たとえば、きょう、ぼくの住んでいる川崎市はよく晴れています。
ぼくはいつもどおり「引きこもり」していますが、カーテンを開けて、窓を開けると、5月のほがらかな日光が部屋に入ってくるんですね。どこからともなく小鳥のさえずりも聞こえてきます。言ってしまえば「それだけのことで」けっこう「良い気分」なんです。
ほかにも、
クラシック曲をジャズ風にアレンジした「楽ジャズ・クラシック」というアルバムを、小さめの音量で流しながら、こうしてポチポチとキーボードをタイプするのも、なんだかいいじゃない。
でも、ぼくはやっぱり「ニート」で、収入も「月5万円」しかありません。うつ病だし中卒だし、先行き不安どころか、いま両親が死んでしまったら、ぼくも共倒れてしまうでしょうね。
あああ・・・
そう思うと、なんだか悲しくなってきました。ぐすん。
ってな具合に、
人間が「豊かだなあ」とか「幸せだなあ」と感じるのは「お金のあるなし」とは関係ありません。
どこを見るか、ですよ。
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人生の豊かさや楽しさ、幸福さと「時間」の関係について。
豊かだなあと思う気持ち、楽しいなあと思う気持ち、幸せだなあと思う気持ちと「お金」は関係ない。
でも「豊かだなあ」「楽しいなあ」「幸せだなあ」と「時間」は関係しています。
諸行無常という言葉の意味を知っていますか?
諸行無常という言葉は学校で習った「平家物語」の冒頭に出てくるフレーズで、あなたも、なんとなく覚えているのではないでしょうか。
でも「諸行無常ってどういうこと?」と訊かれると、
「うううーん」
って、なっちゃいません?
諸行無常というのは「みんな同じところへ流れているんだよ」ということです。
人だけではありません。物も、出来事も、すべては「同じところ」へ流れています。同じところとはどこでしょうか。
それは「終わり」です。
人は死にます。生き物だからね。でもそれは「物」や「出来事」にいたっても同様。すべては必ず終わりを迎えます。そしてすべては常に終わりへ向かって流れています。
ベッキーの不倫のニュースとか、テレビで散々っぱら報道されてますけど、3年後にはみんな忘れてますよ、きっと。
だってさ、2016年になってから「STAP細胞のあの人」とか「号泣会見のあの人」の話、しました?
ほとんどの人は「もうどうでもいいよね」と考えているんじゃないかしら。
すべては「終わり」を迎える。
これは自然なことなんですよ。
そう考えてみると、なんだか虚しくて、切ないね。
でも、だからこそ人は「生きる」んです。
限られた人生を生きるんです。
時間とは命そのものなのに・・・
諸行無常のくだりを読んでいただけたのなら、分かっているとは思いますが、人生には限りがあります。命は生まれた瞬間から終わりへ向かって動き続けているんです。
ということは、
時間=命、ですよね。
時間経過とは「諸行無常の川を流れること」なんですから。
それだけ「終わりへ進む」ことなんですから。
それなのに、多くの現代人は「自分は会社に時間を売って対価として給料をもらっている」と考えています。
これ、虚しくないですか?
お金を手に入れても「豊かさ」や「楽しさ」は手に入らないんですよ?
時間は命、なんですよ?
あなたは(少なくとも心理的には)会社へ「命」を差し出して、その対価として「命や気持ちと取り替えることのできないお金」を得ているんですよ?
ムリのある交換だとは思いませんか?
ぼくがずっと「働きたくない」と考えていたのは、本当は「働きたくない」のではなくて「働かされたくない」だったのかもしれません。
実際、精神の不調もあって毎日更新などできていませんが、ぼくはこうしてブログを書いて、お金を得ています。
お金を稼いでいる、つまり、働いているんです。
時間(命)を差し出すとしても、誰かにそれを命令されて「しょうがねえ」で差し出すのと、自らの意志で差し出すのとでは、気持ちの面で、大きく違います。
自分の意志や、自分で設定したルールがあるところでは、人間は「イキイキ」します。「キラキラ」と輝いたりします。そういう人を見ると、人は「生きがいがあっていいね」と言います。
生きがいも気持ちですよ。自分の意志で「これやりたい!」と思うから生きがいが生まれます。
みんながみんな「好きなことを仕事に」することは難しいでしょう。でも、いつもの仕事でも「これは割と好き」とか「この作業は得意なんだ♪」ということ、ありますよね。
差し出すならそこに「命」を差し出そう、ということですよ。
あとがき
ぼくは「最近の若者」のひとりで「ザ・ゆとり世代」だけど、若いひとの考え方が間違っているとは思えないんですよね。遅刻してくるとかは論外だけど。でも「嫌な飲み会」なら断るべきだと思う。それを「叩く」のはちょっとどうかしてるんじゃないかと思うんですね。
いまの若いひとって「不景気」のなかで成長してきたひとたちですよ。だから「お金」の不安定性を無自覚に理解している。そのため「嫌な人とは付き合わない」とか「仕事の時間じゃないのに付き合いで飲みに行くとかあり得ない」って考えるワケですね。
この考え方は本文に書いた「自ら命を差し出す」ということだと思うんです。若いひとは「お金の無力さ」をどこかで理解していて、本当にかけがえのないものは時間、すなわち自分の限られた命である、ということをよく分かっているんじゃないかな。
ぼくは「最近の若者」であり「ザ・ゆとり世代」だけど、中学2年生までしか学校に通っていないから、若いひとのことはあまりよく分からないんですけどね。
最後に「おもしろいお坊さんのYouTubeチャンネル」と「おもしろいなあと思った関連本」を載せて終わります。
お坊さんのYouTubeチャンネル▶TAGIU CHANNEL
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