生きづらいという感情は勝ち負けでものを見るから生まれる。弟に「お前みたいな負け組にはなりたくない」と言われた話。

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考え事

まいど、黒井です。

ぼくは「ひきこもり」で「ニート」。それも「メンドウだから外に出ないし働かない」というタイプではなく、「恐ろしくて外出できないし働くこともできない」という厄介な人間です。

おまけに「うつ病」「不安症」の気配があり、そのくせやっぱり恐ろしくて病院にも行っていません。

将来の展望がないどころか、すでに「八方塞がり」です。

 

でも、2016年までと比べたら「いま」のほうがちょっとだけ「しあわせ」かもしれません。

それは「勝ち負け」を考えないようにしたからです。

 

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弟に「お前みたいな負け組にはなりたくない」といわれました。

「お前みたいな負け組にはなりたくない」

そう、実の弟にいわれました。

 

いわれた瞬間はグサッときましたが、少しして、

[voice icon=”https://tanoblo.com/wp-content/uploads/2016/09/IMG_0670-150×150.jpg” name=”黒井” type=”l”]勝ち組、負け組って、誰が決めてんだぁ?[/voice]

と、思うようになりました。

すると、ぐさりと刺さった胸のつかえがすうっと取れていったのです。

 

負けるのは自己責任ではない。

そもそも「勝ち負け」は自分で完全にコントロールすることのできる問題ではありません。

ぼくにしたってそうです。

ぼくが世間的に「負け組」という見方をされるようになってしまったのには、いくらか自己責任の部分もあるでしょうけど、ほとんど「仕方のないこと」だったように思います。

 

イジメ。

ぼくは典型的なイジメられっ子でした。

あなたのクラスにもいたでしょう。当たり前のように悪口を言われたり、暴力を振るわれたりしているひと。ぼくは「それ」だったのです。

誰もいない図書室で延々と殴られたり蹴られたり。やっとの思いで買ってもらったケータイ電話に、1日数千から1万件もの迷惑メールが送られてきたり。あげくの果てには、ぼくの唯一の友人やその家族にまで危害を加えられました。

いよいよ耐えられなくなったぼくは、中学二年生の二学期ごろから学校へ行くのが嫌になり、はれて不登校児となりました。

そのままひどい人間不信におちいり、中学卒業後、高校へ入学することもできませんでした。

 

自己責任は半分くらい。

でも、これって、全部ぼくが悪いこと?

どんなひとでも「人生の半分くらいは自分の外に責任がある」と思うのです。

自己責任は半分。

残り半分は「誰か」または「何か」のせい。

自分だけが悪いというわけじゃないと思えたことは、ぼくにとってひとつの「救い」でした。それまでは「イジメられるような人間性の自分はどこへ行っても何をしてもダメに決まっている」と本気で思い込んでいましたからね。

いまだに「人間=恐ろしい生き物」という認識がべったりと脳に張り付いていますが、以前とくらべると、少し良くなったのではないかしら。

 

みんなが手にする当たり前のしあわせ。

「自分だけが悪いというわけじゃない」と思えるようになるまでは、

[voice icon=”https://tanoblo.com/wp-content/uploads/2016/09/IMG_0670-150×150.jpg” name=”黒井” type=”l”]「みんなが手にする当たり前のしあわせ」が、ぼくには遥か遠く、手の届かないものなんだよなぁ。[/voice]

と感じ、居ても立ってもいられない気持ちになったものです。

 

いまでもたまーにそう感じて悲しい気持ちになることもあります。しかし、以前より自分を「負け組」だとは思わなくなりました。

人間なんてどこまで行っても不完全な生き物です。

そしてひとりひとり違います。

それもまっっったく。

[voice icon=”https://tanoblo.com/wp-content/uploads/2016/09/IMG_0670-150×150.jpg” name=”黒井” type=”l”]じゃあさ、当たり前のしあわせって何?[/voice]

当たり前のしあわせなんて、ないのかもしれません。

 

まじめに学校へ行って、大学を出て、そこそこ良い会社に入っても、人生なにがあるか分かりませんから、そこで嫌な思いをすることもあるでしょう。

上司や部下と上手くいかないとか、頑張っていたし成績も良かったのにリストラされたとか。

結局みんな「疲れた顔でうつむきながら」歩いているように見えます。

 

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破綻した人生のテンプレート。

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生まれてしばらくするとハイハイをしはじめます。それからしゃべるようになり、つかまり立ちをして、やっとこさ立ち上がれるようになります。

幼稚園か保育園へかよい、つぎは小学校、中学校、高校と進学していく。そのまま就職するひともいれば、大学や、専門学校に進むひともいます。

やがて結婚をして、子どもをつくり、郊外に一戸建てをもつか、マンションの一室を購入する。車を1台所有して、お盆休みと正月休みには家族で旅行へ出かける。

 

昭和の中期ごろから、このような「人生のテンプレート」が世に広まっていきました。その当時は「ひと並に頑張っていれば達成可能なテンプレート」だったのかもしれません。

しかしどうでしょう?

上に書き連ねた「人生のテンプレート」。

現代においては「かなり頑張らなければ達成できないテンプレート」になりつつあります。

もう破綻してしまっているといってもいいでしょう。

 

しかしながら、多くのひとは「人生のテンプレート」を基準にして人生設計をしています。

それだけなら「ひとの勝手」で済みますが、あろうことか、テンプレートから外れていったひとを「負け」と見なし、いつでも自分が「勝ち組」なのだという前提でものを見ているのはどうかと思います。

ぼくは世間的には「負け組」なのでしょう。

しかし「負けても終わりじゃない」んですよ、べつに。

それからもふつうに人生はつづきます。

 

生きづらいという感情は勝ち負けでものを見るから生まれる。

ゴールデン・ウィークやお盆、お正月。テレビをつけるとかならず新幹線の駅や空港が映し出されています。

「今年も大勢のひとが旅行へ出かけるようですね!」

なーんてやっているのを見て、

  • うちも旅行にでもいきたいわねぇ
  • お金がないから海外になんていけないよなぁ
  • こっちはゴールデン・ウィークも仕事だってのによぉ
  • 旅行ですって。みんなお金があっていいわね

と、いっているひと(思っているひと)、けっこういるのではないでしょうか。

他人をうらやんで「ないものねだり」をしていると、自分の「今あるもの」を忘れてしまいがちです。

さいしょは「意地を張るつもり」でもいいから、「今あるもの」を意識したいものです。

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コメント

  1. 勝ち/負け、でしか分けてなくて、
    幸せ/不幸せ、の分け方を無視しているのがミソ。
    勝ったけど不幸せ
    負けたけど幸せな人生があるのを皆わかっていながら無視している。

    • たじのさんへ。
      コメントありがとうございます!

      まさしくそのとおりですね。「勝ったけど不幸せ・負けたけど幸せ」という状態があるのは分かっているはずなのに、というのは激しく共感です。

  2. あなたみたいに文章を書いて自分で生計を立てようとしているフリーランスの方はいてもいいと思います。
    自分でお金を稼いでいますから。
    しかし、そういったことをせず、ただネットを見ている引きこもりは許されるべきではないでしょう。
    ほとんどの確率で彼らは自分の殻に閉じこもり、自信を喪失していくでしょう。
    なぜなら彼らは自分に対して自信がないから引きこもっているから。
    つまり、放っておくとどんどん人との関わりが消えていく。これは社会のためにもならないし、人のためにもならない。
    だからこそ、私は生活保護の代わりに、ボランティアなどを義務付ける代わりに生活保護を支給すればいいと思います。楽をしていいことを覚えさせないためです。そしてそれでも社会復帰ができない人に対し初めて義務を伴わない生活保護を出すべきです。

  3. 文章が読みやすくてスっと頭に入ってきました❣勝ち負けの考え方を少しずつなくして、自分にあるものを見ることを意識していこうと思います!黒井さんは周りの方をよく見てるんですね!ステキてす!

    • ももさんへ。

      はじめまして! コメントりがとうございます!

      文章、読みやすかったですか。それは良かった。お褒めいただき光栄です。ありがとうございます。これからもよろしくお願いしますね。