嫌な気持ちもあなたが選択したもの。気分は選択できるって知ってます?

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まいど、黒井みなみ(@961373)です。
つい先日まで、ぼくの身の回りでは「ついてないな」「サイアクだ」ということばかり起こっていた。

「こうはならないでくれよ」と心配していることが次々と起こり、しまいには「自分は運がないのだ」とか「ニートに幸せなんか訪れっこない」と考えるようになった。

しかし最近(といってまだ3、4日だが)嫌なことがほんの少し減り、代わりに「良いこと」「幸せなこと」が舞い込むようになってきた。そこには「ささやか」なぼくの「心境の変化」が反映されているのだ。

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気分は選択できる。

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ぼくは大の病院嫌いで「うつ病」であると診断されたのにもかかわらず、現在は病院に通っていない。その代わり(にはならないかもしれないが)独学で「うつ病」などの気分障害について勉強をしている。

その延長線上で「認知行動療法」という「うつ病」を治療するための療法について知り、それに関連する本もいくらか読んだ。

 

認知行動療法の本では「感情や気分は受け取り方を変えることで選択できる」ということが書かれている。しかしぼくにはピンとこなかった。

悲しいときは悲しいし、イライラしているときはやはりイライラしている。気分とはそういうものなのであって、悲しさやイラ立ちを「がまん」することはできても、別の感情や気持ちを「選択」することなどできやしないだろうと思っていた。

しかしここ数日で、ぼくは「気分は選択できる」ということを実感できるようになってきた。

嫌なこと、悲しいことから目をそらして、幸せの光を見る。

ジャンプ

ぼくのやり方は「嫌なことや悲しいこと」から目をそらして、目の前にある「かすかな幸せ」を意識的に見るというものだ。

たとえばある晩のこと。

ぼくは夜がキライだ。といって朝がスキなワケではないが。

夜というのは「明日がやってくるためのもの」という感じがする。だからぼくにとって夜の時間を過ごし、眠りにつくことは「明日へ移動すること」に他ならない。でもぼくは「明日がくるなんてまっぴらごめんだ」という気分なのである。

しかし眠らなければならない・・・

だから夜はキライだ。

ただし「ベッドのなかで眠くなるまで本を読んでいる間」は、本の内容に集中しているためか、明日のことを考えずに済む。少しだけ嫌なものから目をそらすことができる。

ある晩、

ぼくは「本を読む幸せ」を意識するよう努めた。

すると「翌朝」をスムーズに迎えることができた。いつもならもっとも「だるい」時間帯である朝から、たくさん文章を書くことができた。

そのときは取り立てて「幸せだ」とか「幸福だ」と感じることはなかったし、ましてや「昨晩の『意識』が良かったのだ」などとは考えもしなかった。

だが、

そのときぼくは確かに気分を選択したのだ。

良いことも、連鎖反応を起こすということ。

スケッチブック-ハート

ぼくはこれまでの自分の状況を「負のスパイラル」と呼んでいた。ありふれた形容だ。いつだって連鎖的に起こるのは「悪いこと」であり「良いこと」なんていうのは突発的にやってくるものだと信じていた。

意識的にでもいいから「かすかな幸せ」を注視するようになると、これまでは「嫌だなあ」と思っていたことにも「かすかな幸せ」が隠れていることに気づかされる。

また「かすかな幸せ」を発見して尚「やっぱり嫌だなあ」と思ったとしても「心が選択的に幸せの感じられる方向へ進む」ようになるのを実感するだろう。

「かすかな幸せ」を「見たり感じたりする能力」を磨いていくことによって、あなたの日常は「かすかな幸せ」で満ちていくことになるのだ。

それはあなたが、

  1. かすかな幸せを探す能力
  2. 嫌なことから上手く目をそらす能力
  3. かすかな幸せの感じる方へ自分の心を導く能力

 

を身につけ、これらにより「気分を選択できる」ようになるからだ。

そうなると「いつだってかすかな幸せを感じながら生きる」ことができるようになっていく。

”神様の言うとおり”にしない。

走り出す

迷ったり、悩んだりしたとき、ひとの思考は停止する。迷えば迷うほど、悩めば悩むほど砂漠の砂に足を取られるかのようにズブズブとその場にハマり込んでしまう。

このとき「なるようになるさ」と考えるのは非常に日本人らしい。

でもそれは「選択しない」ということを選択したことになる。

それならば「どちらに幸せの光を感じるか」に注目したほうがいいだろう。「幸せ」といってもさまざまであるから、たとえば「どちらによりワクワクするか」とか「どちらがより安心できそうか」と考えるのもいいかもしれない。

これも半ば「クセ」みたいなもので、自分の「幸せ基準」でものを見たり、感じたり、考えたりするという「習慣」そのものが、あなたの胸の中を「かすかな幸せ」で満たすことにつながる。

 

まっとうに社会生活を営んでいると、どうしても「他人に合わせなければならない」とか「理不尽でもこの会社では当たり前なのだ」といったシチュエーションに出くわすだろう。

でも(むずかしいなら時々でかまわないが)自分の「幸せ基準」にまかせて「断る」ことや「あえて空気を読まない」ということをしてみよう。

「無意義な残業を断る」とか「飲み会を断る」とか。

それで仕事が成り立たなくなるようならそれは組織としてどうかしている。

あとがき

ぼくは「自己責任」という言葉がキライだ。その言葉はすごくつめたい感じを持っていて、世の中の人間はみんな「自分は自分、他人は他人」と割り切っているんだなあ、と思わされる。すると生命の温かさがすうっと消えていき、食うか食われるかの食物連鎖の中に生きているのだという感じがし、寒気がする。人間ほどの知性をもっても争いや競争は絶えないのだな、と無力感にさいなまれる。

ただ、これが「自己選択」という言葉になると、ぼくは「なるほど」と思う。スキな方を選んでいい。ただし「責任」を持てよ。そういう意味であるなら、自己選択(自己責任)という言葉は、どこまでも開かれた自由なイメージを与えてくれる。

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